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ドイツ連邦共和国国歌

記事

フランツ・ヨゼフ・ハイドン(左)作曲、アウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(右)作詞。現行のドイツ国歌は、「ドイツの歌」の第三節。

概略

作曲家のハイドン(左)と作詞家のファラースレーベン
作曲家のハイドン(左)と作詞家のファーラースレーベン©  

作曲: フランツ・ヨゼフ・ハイドン(1732-1809)

作詞:アウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(1798-1874)


現行のドイツ国歌は、「ドイツ人の歌」の第三節。(コール連邦首相とフォン・ヴァイツゼッカー連邦大統領との1991年8月19日乃至23日の往復書簡により確定。1991年8月27日付けドイツ連邦広報情報庁公報No.89で公表)


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 国歌

歌詞(日本語訳)

統一と正義と自由を

祖国ドイツに!

友よ求めて進まん

心合わせて手を結び!

統一と正義と自由は

幸せの証

この幸せの輝きの中

栄えあれ、祖国ドイツ!


出典:ドイツ連邦広報情報庁www.bundesregierung.de 及びドイツ政治教育センターwww.bpb.de

「ドイツ人の歌」が紆余曲折を経て国歌となるまでの経緯

賛歌は式典の際に用いられる歌です。国の賛歌である国歌は、昔、少なくともそれが初めて流行した18世紀には、主に国を支配する君主を賛美する歌でした。その後、今日でも歌われている賛歌の大半は、フランス、ポーランド、アメリカ合衆国の場合のように、革命や国家の独立戦争の中から生まれたものです。そのため、その国の国民にとって、こうした賛歌は、大きな象徴的力を保っていました。従って、今日まで人々に親しまれている賛歌は、脈々と人々の意識に強く刻まれてきた国家の伝統の象徴です。

第二次世界大戦後のドイツでは事情が異なっていました。1949年制定のドイツ連邦共和国基本法は、国歌の制定を断念しました。当時まで国歌として扱われていた「ドイツ人の歌」は、成立当時その歌詞の意味するところは違っていましたが、「すべてを越えたドイツ」との歌詞や、殊にマース川、メーメル川、エッチュ川、ベルト海峡まで当時の領土全てを含めた一つの統一国家の成立を願う箇所があり、ドイツの国歌としては適切ではありませんでした。

ドイツの国歌の歌詞とメロディー成立の経緯

作詞のアウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(1798-1874)は文学の教授でした。しかし、急進的な民主主義者であり、またドイツ自由主義運動の魁であるいわゆる「左派自由主義政治思想」の信奉者で、後に彼の詩集「非政治的歌」に表現された彼の政治的思想が主な原因となり、1842年にシュレージエン・フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学(ブレスラウ大学)の文学・言語学教授の職を追われました。


ファラースレーベンは、「ドイツ人の歌」を、1841年夏に、当時イギリス領であったヘルゴラント島での休暇中に作詞しました。その直後の9月4日に、ハンブルクの出版社フリードリッヒ・カンペが初版を出版しました。メロディーは、ヨゼフ・ハイドン作曲「Gott erhalte Franz den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz! (神よ、皇帝フランツを守りたまえ、我らが良き皇帝フランツを!)」を借用しました。


従ってドイツの国歌も、そのメロディーに関しては君主への賛歌を基にしています。ハイドン(1732-1809)は、このメロディーを1796年に作曲しました。1797年2月12日、この曲はオーストリア皇帝フランツII世の誕生日に「皇帝讃歌」として初演されました。後にハイドンは「皇帝讃歌」のこのメロディーを主題として、弦楽四重奏曲op76の3の第二楽章の変奏曲を作曲しました。そのため、この弦楽四重奏曲はその主題に因んで「皇帝」の名称で親しまれています。

ホフマン・フォン・ファラースレーベンは、当時夢物語とされていたドイツ民族の統一を願い、この歌詞を作りました。1815年以降、主にドイツ語が話されていた地域は39の国家(帝国1、王国5、選帝侯国1、大公国7、公国10、侯国11、自由都市4)から成り、ウィーン会議では、これらの諸国家が結集し、ドイツ連邦を結成することが決まりました。しかしドイツ連邦にはその全てを束ねる国家元首も全体を統括する役所や法律もなく、また共通の経済・関税制度も軍隊もありませんでした。
そのため、批判的知識人はこうした小邦乱立と領邦君主権の撤廃並びにドイツ民族の統一国家建国を公然と要求していました。


この歌が初めて公開の席で演奏されたのは、1841年10月5日のハンブルクでの松明行列に際してです。

「ドイツ人の歌」が国歌として制定されるまでの経緯

「すべてを超えたドイツ」が真に国民各層に浸透するにはさらに時間が必要で、ビスマルクによるドイツ帝国が設立された1871年になってからのことでした。しかし当時はまだ国歌となるまでには至りませんでした。この時、この歌の中の「Die Wacht am Rhein (ラインの守り)」という歌詞が「Heil Dir im Siegerkranz, Herrscher des Vaterlands! (勝利の栄冠を戴く故国の支配者万歳!)」に変更されました。その当時から既に、第一節の歌詞が行き過ぎであるとの批判が絶えませんでした。なぜならマース川(フランス語のムーズ)の流れる地域は、当時既に大半がフランスまたはベルギー国内であり、エッチェ川(イタリア語でアーディジェ)はイタリア国内を流れていました。ベルト海峡はデンマークにあり、メーメル川は今日イタリアの川です。


「ドイツ人の歌」が公式の席で初めて歌われたのは、1890年、ヘルゴラント島がアフリカのザンジバル島との交換で再びドイツ領となった時でした。


1922年8月11日、「ドイツ人の歌」が作詞されてちょうど81年後に、ドイツ初の社会民主党政権がこの曲を国歌としました。しかし、ここでは国歌という名称は使用されませんでした。これに対してフリードリッヒ・エーベルト帝国大統領は式典での挨拶で次のように述べています。「統一と正義と自由!ここで謳われているこの三つの言葉は、ドイツ内部の分裂と抑圧の時代に、ドイツ人全ての抱く切なる希望を表したものである。これらの言葉は、今後も、より良き未来の構築に向け、困難な道のりを歩む我らの座右の銘となろう。」ワイマール共和国の時代には、一時期、第四節が作られましたが、すぐに人々から忘れ去られました。


しかしそれにより、他ならぬ社会民主党自体が、ヒットラーにこの国歌をその第一節と共に引渡し、この第一節が悪用され大変な禍根を残したのは、歴史の痛烈な皮肉だと言えるでしょう。政権掌握後僅か数週間で、ナチの指導部はこの国歌を突撃隊の戦闘歌であるホルスト・ヴェッセルの歌と組み合わせ、その歌が公式に「ドイツ人の歌」第一節(他の二節は演奏禁止)の後に歌われました。


そのため第三帝国崩壊後は、「ドイツ人の歌」も禁止となり、連合軍はこの歌を処罰の対象としました。この歌が再び歌われたのは、1948年、ドイツ帝国党のヴォルフスブルクでの集会の時で、禁を破ってのことでした。この歌に対しては、政治家も占領軍も、ドイツ人のこの歌に寄せる強い思いを恐らく過小評価していたと、初代連邦大統領となったテオドール・ホイスは後に述べています。そのため、ドイツ連邦共和国建国直後に、早くも複数の党の議員たちが、「ドイツ人の歌」全三節を国歌とする議案を提出しました。


これに対してホイス大統領は、民主的国家としてのドイツの新たな始まりを明らかにするために、新しい国歌が必要であると考えました。そのため、まずは1950年8月に「ドイツ人の歌」に代わり、「Ich hab' mich ergeben(我はこの身を故国に捧げり)」を代用しました。それと同時に詩人のルドルフ・アレクサンダー・シュレーダーと作曲家のカール・オルフに新しい国歌の制作を依頼しました。オルフが断ったために、オルフに代わりヘルマン・ロイターが新しい国歌「Land des Glaubens, deutsches Land(信仰の国ドイツ)」を作曲した。1950年のシルベスターに初演されたが、国民からは全く反響がなく、受け入れられなかった。更に1951年秋の世論調査では、西ドイツ国民の3/4が「ドイツの歌」を再び国歌とすることに賛同しました。また約1/3の国民が将来第一節の代わりに第三節を歌うことに賛成しました。しかし、「ドイツ人の歌」そのものへの連合軍の禁止措置は続きました。

コンラート・アデナウアー連邦首相は、4月に議会で昔の国歌をあからさまに歌い出し、すぐさま大きな政治問題を引き起こしました。このとき既にアデナウアーはこの問題の難しさを痛感していました。議員の大半が感動して共に第三節を歌った時ですら、同席していた連合軍幹部たちは驚きと不快感を露にしました。他国の人々にとってこの曲は、ナチの狂信的人種差別と世界制覇の欲望をあまりにも強烈に表す代名詞だったのです。それでもアデナウアーは1951年初め、その75歳の誕生日の式典において、ボン市庁舎の外階段に居並ぶ人々に、一緒に「ドイツの歌」第三節を歌うように促しました。最初、楽団は予定になかったこのかつての国歌の演奏を拒みました。しかし首相は最後にはその意志を通しました。こうして1951年10月、キリスト教民主同盟カールスルーエ支部はホイス連邦大統領に対し「ドイツの歌」の禁止処分を解くよう、全会一致で要請しました。第三節だけでも、ドイツの伝統を汲み国歌としての扱いを受けるべきであると要請したのです。そのしばらく後に、連邦政府の公報においても、アデナウアーは、この歌ほどドイツ国民の心に深く根ざしているものは他にないと説いたのです。


ホイス大統領と書簡の往復後、アデナウアーは5月にその意志を通しました。こうして国家行事においては、ホフマン・フォン・ファラースレーベンの第三節が再び歌われることとなりました。しかし、これにより国歌に昇格されたのが、この曲の第三節だけだったのか、それともこの曲全体であったのかに関して、法律家たちがその後38年にわたり論争を繰り広げたにも係わらず、結論が出ませんでした。1990年3月にようやく、連邦憲法裁判所は、第三節のみが「刑法によって保護される」と判断しました。
しかしながら、ドイツ連邦共和国の国歌に関する正規の法律は未だに策定されていません。


1991年11月、当時のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領とコール首相との間で、40年前のホイス大統領とアデナウアー首相との歴史的往復書簡に準拠し、ドイツ人の歌第三節を統一ドイツの国歌と宣言する旨の合意が書簡の往復でなされただけです。

出典: www.bundesregierung.de

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