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「国際ホロコーストフォーラム」におけるシュタインマイヤードイツ連邦共和国大統領スピーチ
Fifth World Holocaust Forum - Jerusalem, © abaca
1月23日にイスラエルのエルサレム市内にあるホロコースト記念館「ヤド・ヴァシェム」で世界ホロコーストフォーラムが開催され、シュタインマイヤー連邦大統領はスピーチの中で次のように述べました。
2020年1月23日
於 エルサレム市内ホロコースト記念館「ヤド・ヴァシェム」
(ヘブライ語で)
「今日この場に私を導かれた主をたたえよ」
今日、ここヤド・ヴァシェムにて、皆さんの前でお話しできるのは、何という恵み、何という贈り物でしょうか。
ここヤド・ヴァシェムでは、ショアーの犠牲者を追悼する「永劫の火」が燃えています。
ここは、何百万人にものぼるその犠牲者の人々の苦しみを記憶に呼び起こす場所です。
そして、その人生、一人ひとりの運命を記憶に呼び起こす場所です。
ワルシャワ開催のマカビースポーツ大会でメダルも獲得し水泳一筋だったSamuel Tytelmanと、その妹で母を手伝い安息日シャバットの料理を用意したRegaの記憶を呼び起こします。
そして、Ida Goldişと3歳の息子Viliの記憶を呼び起こします。二人は10月にキシナウのゲットーから収容所に送られました。彼女は1月のひどく冷え込んだ日、両親ときょうだいに宛てた最後の手紙に次のように書いています。「お別れのとき、あの瞬間のもつ重い意味がわかっていなかったこと、(…)離さないほど強く抱きしめなかったことが心の底から悔やまれます」
彼らを連れ去ったのはドイツ人です。ドイツ人が、彼らの腕に番号の入れ墨を入れたのです。ドイツ人が、彼らの人間としての尊厳を奪い、彼らを単なる識別番号にし、絶滅収容所で彼らについてのあらゆる記憶を消去しようと試みたのです。
その試みは成功しませんでした。
SamuelとRega、IdaとViliは人間だったのです。人間として、私たちの記憶にとどまっているのです。
ここヤド・ヴァシェムにおいて、イザヤ書のいうところの「記念のしるしと名」が彼らに与えられているのです。
その記念のしるしの前に、この私も人間として、またドイツ人として立っています。
彼らの記念のしるしのまえに立ち、彼らの名前を読みます。彼らの物語を聞きます。深い悲しみのもと、頭を垂れます。
SamuelとRega、IdaとViliは人間だったのです。
そして、もうひとつ今日この場で言わなければならないのは、加害者も人間だったということです。彼らはドイツ人でした。殺人者も見張りも共犯者もナチスシンパもみなドイツ人でした。
工場のような体制で600万人ものユダヤ人の命を奪った大量虐殺は、人類史上最悪の犯罪です。そしてその犯罪は、私の国の人間たちが犯したのです。
5000万人を遥かに超える人々の命を奪う非道な戦争は、ドイツが始めたのです。
アウシュヴィッツ解放から75年、私は今ドイツの大統領として皆さんの前に、重い歴史的罪責を背負い立っています。しかし同時に胸は感謝の念で満たされています。生存者の人々が手を差し伸べてくれ、イスラエルの人々や世界中の人々が新たな信頼を寄せてくれ、ドイツにおいてユダヤの人々の生活が再び活気に溢れていることへの感謝の念です。ドイツとイスラエルに対して、また、ドイツとヨーロッパや世界の国々に対して新たな平和の道を示してくれた和解の精神が、私の心を満たしています。
ヤド・ヴァシェムの火が消えることはありません。また、ドイツの責任が消え去ることはありません。私たちはその責任に応えていきます。それによって私たちを評価してください。
和解の奇跡への感謝の念を胸に、こうして皆さんの前に立ち、「記憶を呼び起こすという営みによって私たちには悪への抵抗力がついた」と申し上げられればよかったと思います。
確かに、私たちドイツ人は記憶という営みを行なっています。しかし時として、現在よりも過去のことのほうがよく分かっているのではと思わされることがあります。
悪は、こんにち装いを新たにその姿を表しています。それどころか、反ユダヤ的、国粋的、権威主義的な思想を、現代の諸問題を解決する新思想として売り込むようなことすら行われています。「私たちドイツ人は歴史の教訓から永遠に学んだ」と申し上げられればよかったと思います。
しかし、そのように申し上げることはできません。憎悪や誹謗攻撃が広がっているなか、無理なのです。ユダヤ人の子どもたちが校庭で唾をはきかけられ、イスラエルの政策への批判と称した野蛮な反ユダヤ主義的言動が見られ、ヨム・キプルの祭日に、ハレ市内のシナゴーグで、重い木製扉がなければすんでのところで右派テロリストによる大量殺人が発生していた、そんな今、そのように申し上げることはできないのです。
もちろん、今の時代はかつてとは違います。使われている言葉もかつてとは違います。加害者もかつての加害者ではありません。
しかし、悪はかつてと同じ悪なのです。
そして答えも唯一「繰り返すな、決して繰り返すな」という以外あり得ないのです。
ですから、記憶という営みに終わりがあってはなりません。
その責任は、ドイツ連邦共和国創設の日からその一部として組み込まれています。
そしてその責任が、私たちを、今、ここにおいて試しています。
ドイツは、自らの歴史的責任に応えてはじめて、自身に課された使命に応えられるのです。
私たちは反ユダヤ主義と戦います。
私たちはナショナリズムという毒に抵抗します。
私たちはユダヤの人々の生活を守ります。
私たちはイスラエルに寄り添います。
このことを、ここヤド・ヴァシェムにおいて、世界が見つめる中改めて約束します。
私は一人でないと知っています。ここヤド・ヴァシェムにおいて私たちはともに「ユダヤ・ヘイトにノー、人間憎悪にノー」を表明するのです。
かつて世界は、アウシュヴィッツの恐怖から教訓を学び、人権と国際法を土台として平和秩序を構築しました。私たちドイツ人は、この秩序をともに担っており、皆さんとともに守っていきたいと思っています。平和とは脆いものであり、私たち人間は誘惑に弱いものだからです。
「A world that remembers the Holocaust. A world without genocide(ホロコーストを記憶する世界に、ジェノサイドのない世界に)」。各国首脳の皆さん。私は、今日皆さんとともにそう誓えることを有難く思います。
「ひょっとしたら、生命の魅惑的な響きをもう一度耳にできる日があるだろうか。ひょっとしたら、私たちが永遠の一部として織り込まれることもあるだろうか ― ひょっとしたら」
Salmen Gradowskiは、アウシュヴィッツに収容されているとき、このように書き、書いたものをブリキ缶に入れ、火葬場の下に埋めました。
ここヤド・ヴァシェムに、彼らは永遠の一部として織り込まれています。Salmen Gradowskiも、Tytleman兄妹も、IdaとViliの母子も。
彼らは皆殺されました。彼らの命は、タガの外れた憎悪の中で失われました。しかし、私たちの記憶の営みは無に打ち勝ちます。そして行動、私たちの行動が、憎悪に打ち勝つのです。
これは私の信念です。私の期待です。
今日この場に私を導かれた主をたたえよ。