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「勇気を選ぶことができる」-希望に燃えるひと、ガウク新連邦大統領の横顔紹介

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「勇気を選ぶことができる。私たちはそれを夢見ただけではなく、身を以って実行し、示したのだ」 希望に燃えるひと、ヨアヒム・ガウク新連邦大統領の横顔をご紹介します。(文:『Die Zeit』元編集長 ロベルト・ライヒト)

文 ロベルト・ライヒト

ベ ルリンの壁と東西ドイツ国境開放後の1989年もしくは90年の時点で、統一ドイツはいつの日か、旧東ドイツ出身のふたりの人物によって統治され、代表さ れる、などと予想できたひとがいるだろうか。しかし、現在その通りになっていて、現首相は初の女性首相でもあるアンゲラ・メルケル、連邦大統領はヨアヒ ム・ガウクである。ドイツの国政のふたつの重要ポストに、旧東ドイツで生まれ育った人物が就くということは、かつて東西に分断されていたドイツの内面的統 一に、計りしれない貢献となる。その象徴的かつ心理的な重要性は、統一後に旧東ドイツの住民がドイツ連邦共和国に馴染むためになされた財政・社会政策面の 努力のそれに劣らない。

さらに、首相と新大統領が旧東ドイツの独裁体制から距離を置き、民主化運動に携わっていたという事実は、ドイツ人 自身だけでなく、近隣の東欧諸国はもとよりドイツの周辺諸国全てにとって重要な点である。決して大げさではなく、アンゲラ・メルケルとヨアヒム・ガウク は、抑圧的な環境で育まれた自由への愛は、ドイツを長期的に平和的なヨーロッパに繋ぎ留める用意とすんなり結びつくということを示す、信頼できる証人と言 えよう。しかも両人は、共産主義の専制国家が強いた“愚民状態”からの脱出を試みたとき、東欧諸国の反体制民主化運動がどれだけ大きな助けになったかを、 経験上知り抜いている。

ところで、第11代新大統領の横顔はどう描けるだろうか。アンゲラ・メルケル首相とヨアヒム・ガウク大統領は、生い立ちや思想的背景で共通点がある。しかし、ふたりを互いに照らし合わせて見ると、そこにははっきりした相違がある。

す なわち、1989年まで若い冷徹な科学者だったメルケルは、90年春に民主化運動とドイツ統一に一切の政治的経験なしに関わり、そのためにとくに多くの西 ドイツの政治のベテランからひどく過小評価された。しかし、速やかに所属政党と議会で、さらには若くして政治の中枢で活躍するようになり、カリスマ的な話 術の持ち主ではないのに(いや、だからこそ)、しまいには現在のように一国の最高位にまで上り詰めた。他方、ヨアヒム・ガウクのほうは、元来感情豊かなひ とで、人々に感銘を与える演説が非常に得意な新教の牧師だった。ガウクは決して非政治的な人間ではないが、心に訴える崇高な説教ができなくなるという危惧 の念からか、様々な行動の義務を伴う政治の世界には足を踏み入れなかった。

政治活動や話術の点ではまったく対照的とも言えるメルケルとガ ウクだが、ふたりが育った東ドイツのプロテスタンチズムの土壌は、不均質でありながら、やはりどこか共通している。そのせいでふたりの間には不思議な親近 感があるらしい。ガウクの70歳の誕生日に祝辞を述べるよう求められたメルケルは、話し始める前に、気さくな調子でこう言ったのである。「ガウクさんは、 こんなにも多くのひとから素晴らしいスピーカーだと言われたのですから、この祝辞もご自身で述べられるのが一番ではないでしょうか」。荘重な雰囲気の座 が、和らいだ一瞬だった。

大統領の2代続けての任期半ばでの辞任、とくにメディアが大騒ぎした前大統領の辞任の直後に就任し、ベルリンの 大統領官邸ベレビュー宮に再び光輝を取り戻すことが期待されているヨアヒム・ガウクとはどのような人物なのだろうか?。彼には実に大きな信頼と山のような 期待が寄せられている。ドイツ人には、政治軽視から逆に政治賛美へと(あるいはその逆に)態度を急速に変えるところがあり、新大統領には一日も早い信頼回 復が待たれている。

ヨアヒム・ガウクは、第二次世界大戦が勃発した1940年、ロストックに生まれた。初期の社会主義ドイツ民主共和国 (旧東ドイツ)で子供時代を過ごした世代のひとりである。父親は51年にソ連の秘密警察に逮捕され、25年間釈放なしの2つのシベリア強制労働刑を宣告さ れた。だが、55年のコンラート・アデナウアー連邦首相のモスクワ訪問で実現したドイツ軍捕虜の帰還によって、父親も4年後に帰郷することができた。ナチ スドイツと旧東ドイツという両ドイツ国家での専制政治と司法不正の恐ろしさは、当時の少年ガウクの心に深く刻み込まれたに違いない。

ガウ クは、SED(東ドイツ社会主義統一党)一党独裁国家が組織した各種の青少年団体のいずれにも加盟せず、それ故に後に大学でドイツ語・ドイツ文学を専攻す ることを許されなかった。58年から65年まで学んだ神学は第二志望で、熱心な神学研究者となることはなかったが、旧東ドイツでは限られたわずかな自由空 間を与えてくれた。ここにいる限り、体制と粘り強く対峙することができた。自分は危険のない場所で暮らしながら、「牧師であるガウクは、2〜3年刑務所を 経験してから人権活動家と呼ばれるべきだった」などと言うひねくれたひとがいるが、彼らは、ガウクはこの秘密警察国家にあって自分を頼りにしているひとた ちを支えねばならなかった、ということを知らないのだ。団地が立ち並ぶロストック=エーバースハルゲン地区で、ガウクはアパートのドアをひとつひとつ叩い て、信仰の道を説いた。「ひとをすなどる者」の働きは次第に成果を挙げ、信者の数は増えていった。88年6月、ロストックの教会での説教でガウクはこう述 べている。「もしこの国を出て行く自由があるなら、われわれはここから出て行こうとは思わない」。この言葉に触れたり、83年にヴィッテンベルクで開かれ た「ルター・教会デー」の作業部会でガウクと知り合ったひとたちは、以後、ガウクを疑うことをしなくなった。「この人物の信念は本物だ」と確信したのだ。

で は、1989/90年の統一後どうしたかと言えば、直接政治に携わることはなかった。ガウクは、旧東独政権の秘密警察、いわゆる“シュタージ”の記録書類 を、迅速な“和解”に向けて永久に封印することに強く反対した。自分たちの生活記録が知らぬ間に勝手に作り変えられていたことを被害者本人に明示するため に、また、偽りの罪状で被害者が加害者にすり替えられることのないように、記録書類は閲覧可能でなければならないと考えたのだ。ガウクは、シュタージ記録 文書管理局の長を90年から10年間務めたが、同局は、この骨太な局長の名をとって、一般に「ガウク局」と呼ばれた。

ガウクのピンと胸を 張った姿勢——すでに述べたように、それは現実の政治の場で妥協や屈服を強いられたことがないことからきているが——は今や彼を、倫理面の権威に伸し上げ ている。左派党を除く全ての党が、ガウクを自党の連邦大統領候補者に推薦するなどということは、わが国政治史始まって以来の珍事である。

一 般に、合意に基づく、超党派の候補というものは、候補者の人物に対する広く深い賛同がなければ成立しない。ヨアヒム・ガウクの場合は、どの党もこれまでに 何かしら彼と摩擦があったようだし、これからもあると予想される。どこもガウクを独占できないし、彼も誰にも追従しない。全ての党の政治家がまるで申し合 わせたように、既成政治家とは異なる人物を国家元首にと考えたのだ。ガウクに匹敵する人物が自党にいないことを認識した結果、とも言えよう。この選択には 明るい将来が感じられる。人間的な弱みはいろいろあるとしても、ガウクのようなひとが議会制民主主義を無視してポピュリズムに走るようなことがあろうとは 思えないのである。50過ぎて初めて自由民主主義の空気を吸ったガウクは、大統領に選出された直後のスピーチでこう語っている。「私は将来も決して、決し て、選挙権を放棄することはないだろう」。民主主義は自由を必要とするが、自由を維持するためには民主主義制度の手入れを怠ってははならないということを 新大統領は知っている。

近年、ホルスト・ケーラー、クリスチアン・ヴルフと大統領の辞任が相次ぎ、連邦大統領という職務の必要性を疑問視する声が出ていた。しかしこうした“国家元首をめぐる危機”は、そもそも現今の政治情勢全般の危機のひそかな現れだったようだ。

自 由と民主主義に対して頑なと言えるまでの信頼を抱くヨアヒム・ガウク新大統領が誕生したことは、ドイツ人が自国の平和民主主義に自信をもち、国民ひとりひ とりがそれぞれの場で自分のできることをしなければならないという自覚を強める、絶好のチャンスである。フランスの作家エルネスト・ルナンはかつて、「国 民の存在は……日々の国民投票である」と語った。その意味では、ヨアヒム・ガウクには、実際に国民投票で選ばれた連邦大統領のような、国民に愛され親しま れる大統領になる素質があり、またそのような任務が任せられていると言えるだろう。


ロベルト・ライヒトは週刊新聞『Die Zeit』の元編集長で、ドイツで最も著名なジャーナリストのひとり。

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